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2023-11-22

アルバイト

「目標からの寄り道」

コピーなどの軽印刷会社のアルバイトに就く

H通信のアルバイトを辞めた後、僕は渋谷にあるゼロックス系列のコピーおよび軽印刷会社でのアルバイトに応募した。応募した理由は、学生時代に確定申告のコピーの短期アルバイトで得た楽しい経験があったからだ。時給は1000円と低かった。アルバイトを始めた目的は、50万円を貯めて3月のセミナーに参加することだった。時給1000円では十分に稼げないことは分かっていたが、目的とは異なる楽しさに流されてしまった。

渋谷の軽印刷会社で面接を受けた。面接官は50代近い部長クラスの人物だった。面接後、すぐに採用された。仕事はコピーを取ったり、検品したり、納品するなどの簡単なものだった。職場は主にアルバイトや契約社員で構成されていた。

同僚には、同年代の第二新卒の明治大学卒の岡田くん、辻村さん、23歳の受付女性、コピー操作をする尾山似の女性や他の年上の女性などがいた。みんな親切な人ばかりだった。特に岡田くんには多くを教わった。岡田くんも第二新卒だったが、アルバイトをしており、人生の方向を模索しているようだった。

時間が経つにつれて人間関係が見えてきた。長く働く辻村さんは23歳の受付のアルバイト女性と付き合っていた。男女比が半々の若い人が多い職場だったが、自分にはチャンスがなかった。また、もう一人魅力的な女性がいたが、彼女も他の人と付き合っていた。

記憶に残っているのは、昼休みにアルバイトの仲間と渋谷駅前でオムレツを食べに行ったことだ。困ったこととしては、当時僕は吃音があり、電話対応が辛かった。コピー業務が主だったが、電話対応は避けられなかった。

おそらく1ヶ月くらいで、その仕事を辞めた。みんな良い人ばかりだったが、仕事に魅力を感じられなかったこと、そして目標である3月までに50万円を貯め、セミナーに参加することを再認識し、稼ぐことを最優先にしたからだ。

携帯電話販売のアルバイトに応募

確か9月に軽印刷のアルバイトを始め、約1ヶ月と少し働いたと思います。10月の前半にそのアルバイトを辞め、来年3月までに50万円を貯める方法を再考しました。3月のセミナーに間に合わせるためには、少なくとも月に10万円は稼がなければなりません。そのためには、手取りで最低25万円、できれば30万円が必要でした。新卒時の初任給が月給21万円だったので、30万円は遠い目標に思えました。

どのような仕事が適しているか考えた時、学生時代のアルバイト経験を活かせる接客業が良いと考えました。フロムエーなどのアルバイト情報誌を毎週購入し、月給25万円以上の仕事を探しました。25万円以上稼げる仕事は主に派遣社員や請負社員の店舗派遣が多く、特に電機量販店のメーカー派遣店員の仕事の給与が高かったので、いくつか候補をピックアップしました。

注目したのは携帯電話の販売アルバイトでした。1995年当時、携帯電話はまだ90%普及しておらず、IDO通信、NTTドコモ、東京デジタルフォン、TU-KAセルラー東京などの新しい通信会社が設立されていました。当時の携帯電話はまだ一般には普及しておらず、端末の価格が3万から4万円に下がり、ブレイクし始めていた時期でした。

気になった求人広告は「東京デジタルフォン設立に伴う新規販売メンバー募集」というキャッチコピーで、月給は30万円でした。携帯電話に特別な興味はなかったものの、これから流行するだろうと予感し、面接を受けてみることにしました。

携帯電話販売代行のL社の面接に合格

その請負元はL社という販促代行会社だった。携帯電話の販売の他にも、さまざまなキャンペーン代行を行っているようだった。面接後すぐに連絡が来なかったので、落ちたのかもしれないと思い始め、他のアルバイトを求人誌で探していたところ、電話がかかってきて、採用の連絡を受けた。

その後、担当者と面談し、東京デジタルフォンの本社でメーカーの人と会うことになった。そこで正式に合格となった。今回の契約はアルバイトというより契約社員という形だった。改めて契約社員としての責任の重さを感じた。

また、その後L社の社長から直接、目標設定とそれを達成するための行動の重要性について語られた。これには深い感銘を受けた。僕が目指している50万円を貯めてセミナーに参加する目標とリンクしていたからだ。だからこそ、より一層の意欲を感じたと思う。

横浜営業所での研修と顔合わせ

10月下旬頃、東京デジタルフォン横浜営業所での研修に参加することになりました。横浜営業所には近藤所長、西村さん、安田さん、牟田さん、そして事務の女性の計4人しかいませんでした。日本テレコムが出資する結構大きな会社だったのですが、営業所は意外と小さくて驚きました。当時のデジフォンにはプロパー社員がほとんどおらず、主に出向社員が仕事をしている状況でした。近藤所長はケンウッドから、西村さんと安田さんは日本テレコムから来ており、契約社員の牟田さんもいました。

僕は横浜営業所で携帯電話の仕組みや申し込み書の記入方法など、さまざまな研修を受けました。

その後、配属先が決定し、僕は当時売上が最も高かった駅前のカメラ系量販店に行くことになりました。この店は駅前にあるため、いつも賑わっており、非常に厳しいという噂も聞いていました。

正直なところ、この仕事が大変ではないかと思い、少し気が重くなっていました。おそらく、何も目標がなければ、この時点で根性なしの自分は辞めていたと思います。しかし、目標があったからこそ、僕はとりあえずやってみようと思ったのです。